雪が融ければ春になるように
誰の心も解けてしまえばいいのに


 遥か彼方の絆の果てに 


この街は冬に閉ざされた街。季節ではなく、人の心が。
色々なところから、色々なことがあってぼろぼろになった人々が流れ着く街。
だから、彼らがやってきたときも初めはどうとも思わなかった。特別には見えなかったから。
せいぜい十歳くらいの少女と、二十歳くらいの、その少女の兄にも見える青年。
冬のある日突然ふらりとやってきて、街外れの空家を借りて、青年の方は街の市場で働き始めた。経歴はまったくの不明、だけどそんなことをわたしたちは気にもとめない。適当に働いて食べて、とにかくこの街で死なないでいてさえくれればそれでいいのだ。
それでどうして変わった人たちなのかといえば、その妹(多分)のほう。だいたいの訪問者は最初皆ほとんど喋らないし、実際青年の方は職場でもほとんど口を開かない「寡黙な人物」だったのだけれど、妹のほうはそれに輪をかけたように、十歳くらいの少女とはとても思えないほど口を開かない。というか心を開かない。
いつも水平方向に対して下斜め45°くらいをじっと見つめていて、声をかけても目を合わせるどころか目線さえ上げやしない、まして口なんて貝のようにつぐんだままで、どういうわけかいつも両腕でしっかりとラベルのはげたワインのビンを抱き締めている。おかげでわたしは未だにこの子の名前を知らない。
わたしはこの少女の(多分)兄の仕事仲間で、ときおり彼らの家を訪れては食事の世話なんかをしている。本当はこんなおせっかいなことをしては迷惑なのだろうけど、ときどき誰かが食べさせてやらないと彼らは死にかねないのだ。

つまりそれくらい、彼ら二人は生きようとする意思が希薄だった、ということ。


「貴方の妹。どうにかしてくれない?」
 相変わらずワインのビンを抱き締めた少女が、店の前でじっとたたずんでいる。真ん前でじっとしているものだから、先程から妙に客足が遠のいていた。この雪模様に傘も差していないからけっこう目立つ。
「…どうにか?」
 一年近く経つので、さすがに兄のほうとはそれなりに会話がなりたつようになった。それなりに。
「そうよ。あの子…ええと何て言ったっけ?さっきからお客さんの邪魔なのよ、あそこでじーっとしてて」
「…カシス」
 彼…ウィンチェルが、自分が今早口で言った言葉の中に含まれていた質問に答えたのだ、と気付いたのは少し間があいた後だった。
「そ、そう、カシス。貴方のこと待ってるんじゃないの」
「…カシスは、俺の事なんて待たない」
 でも実際問題カシスは店の前でじっとしている。待っているようにしか見えない。
「待たない、って…帰ってくるのを待ってたりとか、するん」
 そのとき、珍しくウィンチェルがこちらを遮った。
「…ソレイユがどう思ってるか知らないが、…」
「…え?何?」
「…いや、何でもない」

 ウィンチェルはそれきりまたいつも通りに口を閉ざしてしまった。仕方がないので、自らカシスの元へ出向く。
「カシス、ちゃん?」
 こちらもいつも通り、顔を上げようともしない。
「どうかしたの?」
 それでもじっと地面を見つめているので、客の邪魔になっているということをどう伝えようかと考えているところへ、蚊の鳴くような声が聴こえてきた。
「…おなか、すいたの」

 多少もとい多大な不安は残るものの店をウィンチェルに任せてカシスと二人で市場を出て、歩くこと十分弱。二人が住んでいるこぢんまりとした家が見えてきた。
 買ってきたパンで適当にサンドイッチを作る。
 それをカシスに渡してから、ぼんやりと家の中を見回す。いつ見ても、何も無い家。まるで、長くは住まないつもりだと家全体が主張しているような…
「…は」
 ふいにカシスが口を開き、考えが中断してしまった。
「何?」
「…おねえちゃんは、いい人?」
 突然何を聞くのだろうこの子は。
「…いい人とか、悪い人とか思うのって、人それぞれなんじゃないかな」
 何とかごまかしたものの、カシスはなおも聞いてくる。
「………じゃあ、あのひとは?おねえちゃん、いいひとだと思う?」
「あのひと?」
「…おねえちゃんのお店で働いてる」
「……ああ、カシスのお兄ちゃんのこと?」
 こう言ったのはどうも失敗だったらしい。わたしは、後にも先にもこんなに激しく感情をあらわにするカシスは見なかった。
 ばっ、と顔を上げて、こちらを睨んでくる。そのままでカシスは吐き捨てるように叫んだ。
 
「あんなひと、わたしのおにいちゃんじゃないっ!」
と。


それはひどく悲痛な響きに満ち溢れた叫びだった。
カシスのような子供には、およそ似つかわしくない程の。


「店番お疲れ様」
「…ああ」
「…ウィンチェル、あんたカシスに相当嫌われてるわね。なんかしたの?」
「…『マナー違反』だ。教える義理もない」
「それは…」
 そのとおりだった。ウィンチェルとカシスの仲がどんなに悪かろうがソレイユには何の関係もないし、必要以上に首を突っ込むのは別にこの街でなくとも彼の言うところの『マナー違反』なのだろうな、とも思う。
「…じゃあ、俺はそろそろ帰らせてもらう」
 でも。
「あんな人、わたしのお兄ちゃんじゃないって」
 ウィンチェルがふいに振り向いた。かつて見たことの無いほど厳しい顔つき。気にしないふりをして続ける。
「『わたしの』お兄ちゃんじゃない、ってことは、誰か別にカシスのお兄ちゃんがいるの?」
 ウィンチェルは答えない。
「カシスとあんたは、どういう関係なの?…この街に、犯罪者は置いとけないのよ」
 ウィンチェルの返事を待つほんの僅かな時間が、ソレイユが彼に僅かながらも好意を抱いているからこそ、彼女には永劫にも感じられた。
「…カシスは」
 ようやくウィンチェルが口を開いた。
「…俺の、友人の妹、だ」

 ウィンチェルはそれ以上何も話さなかった。
「…カシスから、あの瓶の話を聞けたら」
 とだけ言って。
 そして暫くカシスをソレイユが預かることになった。ウィンチェルさえいなければ、それなりに他人に心を開くらしい。あくまで、それなりに、だけれど。
 
 「カシス、人参洗ってくれる?」
 カシスを預かって三日目。確かに、「それなりに」彼女はソレイユに打ち解けていた。瓶の話はまだ聞いていない。いざとなると、どういうわけか聞いてはいけないことのような気がしてきていつも躊躇してしまうのだ。
 そんなことを考えていたとき、人参にこびりついた泥を落としながら、ぽつりとカシスが言った。
「…このビンは」
「え?」
「おにいちゃんがくれたの。カシスのたからものをいれなって」
「…お兄ちゃんって?」
「わたしのおにいちゃん」
 とりあえずウィンチェルでないことだけは分かる。
 
「…こんなに早く打ち解けるとはな」
 ウィンチェルに一部始終を話すと、彼は珍しく驚いたようだった。
「どうして、あの瓶の話を聞くとカシスがわたしに打ち解けたことになるの?」
「…あいつは、心を開いた相手にしかあの瓶の話をしない。だから俺もあいつからは聞いたことがない…ソレイユで三人目だ、確か」
「じゃあ、どうして…」
「…俺があいつに渡したんだ。……死ぬ直前、あいつの兄貴から預かってた」
「……」
「あいつの兄貴を…俺が殺したんだ」

 ソレイユは何も言えなかった。何を言ってもちゃちな気休めになってしまう気がした。
「何年か前に、南の方で戦争があった」
 それはソレイユも知っていた。
「あいつの兄貴は俺の親友で、そいつが志願して戦場に行ったしばらく後に俺も戦場に出た。俺は、そいつがこっちの国の軍に入ったに違いないと思ってたんだ…そいつとカシスが相手の国の人間だったことも、どちらの味方につくか物凄く悩んでたことにも気付かないで」


 …カンパリ!?お前、カンパリなのか!?
 …よお…ウィンチェル。お前、…お前も、やっぱり来てたんだな…
 …お前…どうして、…なんで俺と戦ってたんだ!?
 …俺が、向こうの人間だからさ。
 ………!
 …ああ、でも…まさかお前にやられるとはな…。偶然ってのは怖いなあ…
 …喋るなっ!ちょっと待て、いま…
 …止せよ。お前、見つかったら殺されるぞ?…お前に死なれちゃ、困るんだよ。お前には俺の頼みを、聞いてもらわにゃならん、からな…
 …頼み?
 …ああそうだ。…カシスのこと…頼む。


「俺は、あいつのことはカシスに黙ってた。まだ帰って来れないって嘘をついて、渡してくれって頼まれたと嘘をついて瓶を渡して、それから、これからあいつの所へ行こうって嘘をついて、国を出てきた。…上手くいくはずだったんだ、カシスが大きくなって一人で暮らせるようになったころ、俺が真実を話すまで」
「…どうして、カシスは本当の事を知ってしまったの?」
「…カシスは、人の心を読める。と言ってもふとした拍子にほんの少し心の表面に浮かんでる言葉が分かるくらいらしくて、めったにないなんだが、…運の悪いことに、たまたまそのめったにないふとした拍子に俺が考えていたのがそのことだった…物凄く泣いて、俺を殴って、一晩寝て覚めたら、もうそれまでのカシスはどこかに吹っ飛んでた」
 知りたくもない真実を知ってしまったときの、カシスの衝撃はいかほどだったか。それは心を氷のように凍てつかせるに充分だったのだろう。
「どんなにあいつが嫌がっても、あいつの面倒を見る。それが俺に出来る、唯一の罪滅ぼしだから…たとえ、いつかカシスに殺されたって、俺は構わない」

 いつかこの二人に感じた、生きる意思の希薄さ。
 その理由が今見えた気がした。
 
「…でも、心を閉ざしているのは貴方の方じゃないの?」
「…?」
「カシスは貴方に対して心を開きたいのよ。貴方の方が閉じてるから、何も出来ないんじゃないの」
「…だが」
「貴方がカシスに渡したのは別にカシスのお兄さんの物じゃないんでしょ?カシスはそのことも知ってるんでしょ?じゃあどうして、大嫌いなはずの相手から渡されたべつにお兄さんの形見でもない瓶を大事に抱き締めてるの?」

 この間、カシスから聞いた話を思い出す。
「あのひとは、わたしがいると笑ってくれないから」
「…?」
「いつもいつも思ってるの。とんでもないことをしたって。許してもらえるわけがないって」
「カシス…」
「だから、言えないの。ビンありがとうって」
「…それは、カシスのお兄さんがくれたんじゃないの?」
「嘘つきなの。おにいちゃん、お酒飲まないもん」
 どうせ嘘をつくならもっと上手くやればよかったものを、お陰で彼らはずいぶん遠回りをしてしまったらしい。

「…俺は、カシスに許されてるのか?」
「さあ?あいにくわたしはカシスじゃないもので」
 ウィンチェルが少し笑った。そういえば彼が笑うのを見るのはひょっとして初めてではないだろうか。
「行ってくればいいじゃない。直接聞いてくれば?」
 ふと思い立って付け加える。
「きっと瓶の話もしてもらえるから」

 家に向かって心なしか急ぎ足で歩いていくウィンチェルの後ろ姿を見送りながら、ソレイユはふと思った。
 明日から子供にも出来る仕事をふやさなくちゃ、と。
「エプロンも作っちゃおうかな!」


雪が解けて、春ももう、近い。


カシスとカンパリ兄妹の苗字は『ソーダ』に違いありません。
カシス・ソーダとカンパリ・ソーダということで。(アホ)
人名で遊ぶの大好きです。ソレイユもウィンチェルもカクテルの名前です。


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