君とラッシーの休日   


 記憶より記録に残るほうの人間だという自覚がある。

 どこの学校のどのクラスにも1人はいたはずだ、卒業アルバムにはほとんど登場せず、街でかつての担任に会っても気付かれず、下手をすると母校に(もちろん遊びになどではなく用事で)行っても気付かれず、同窓会では誰もが陰で口をそろえて「あんな奴いたっけ?」と言う…ひょっとしたら同窓会の案内すら届かない、そんな人間が。

 もちろん全く寂しくないといえば嘘になるけれど、でももうそうやって生きてきて20数年。多少の諦めをもって、私はそんな私を受け入れていた。記録に残るだけマシなのだ、と。記憶に残してくれる相手が全くいないわけじゃないからまだいいほうだ、と。一握りの同類だけでも私を覚えていてくれれば、それでいい、と。

 ついこの間までは、そう思っていた。


 +++


 げた箱に履物をきちんとしまう、ということが何故かできない人間というのが私の周りには常に何人かいる。最も身近なところでいけば私の父、あと2つ年下の従弟。幼稚園のマサヒロ君とあずさちゃん。小学校のときのサワムラ君とかタイチ、山田なんかも上履きを放り出して帰っては先生に怒られていた。タイチなど中学に上がってもげた箱をまともに使ったことがなかった気がする。
 高校は新しかったせいか私服で土足で、だからげた箱という概念がなくて、大学にももちろんげた箱なんて存在しなかったのだけれど、大学3年になってゼミに配属されて、そしてそのゼミ室…というよりそのフロア全体が土足厳禁だと知ったとき、なぜだかひどく懐かしい感覚がした。ああきっとまたげた箱の使えない人間がいるのか。

 その日は11月とは思えないほど冷え込んで、しかも雨が降っていて、おまけにその雨は予報によれば徐々に強くなりながら1日中降って、ついでに土曜日で、どう考えても1日家でごろごろしていたいような日だった。というか普段なら間違いなくそうした。そうしなかったのは輪読の当番が2日後に迫っていたからで、その輪読で読んでいる本を学校に忘れるという大ポカをやらかしたからだ。
 本を回収したらすぐさま家にとって返すつもりで、すぐに暖かいお茶でも飲めるように電気ポットのスイッチを入れて出かけたのだったが、寒さでぶるぶる震えながら建物に入り、すっかりかじかんだ手をさすりながら3階まで上がって、げた箱を見たとき、しぼんでいた私の心は確かに弾んだ。休日出勤バンザイ!などと思ったような気さえする。

 以前思った通り、げた箱が使えない人間がゼミには2人いた。1人はロッカータイプのげた箱のふたを常に全開にし、その上でげた箱の上部に履物をのせる。つまり割り当てられている『靴をしまう部分』は全く使わないわけで、そうなるとふたを全開にしておく意味が分からないのだが、とりあえず学校に来ているのか来ていないのかは非常に分かりやすかった。げた箱の上に茶色いスニーカーがのっていれば来ている。黄色いスリッパがのっていれば来ていない。
 もう1人は私が知る今までの履物しまえない症候群の人々とは微妙に違い、スリッパはきちんとしまう。そのくせ靴はしまわない。しかし夏季にサンダルをはいてきた場合、サンダルはしまう。何か彼なりにこだわりがあるらしかったが、そんなことは割とどうでもよかった。

 重要なのは、今、げた箱の前に、かかとのつぶれたデッキシューズが1足放り出されている、ということだ。

 フロアをまっすぐに突っ切り、つきあたりを右に曲がったあたりからが私のゼミの領土になっている。共用の本棚、1人1台割り当てられる机が1つ、2つ、

 みっつ。
 いた。
 やっぱり昨夜は泊まりましたね?

 ひとつ、ふたつ、大きく深呼吸をする。
 ほら、寒いから。そんな薄着で机で寝てたら、風邪ひくから。私? 本忘れちゃったんだ。

 シミュレーション完了。行動開始…の前に、奥を覗く。やっぱり土曜日だ、誰もいない。
 改めてもう一度大きく深呼吸。
 声帯を震わせるのって、こんなに大仕事だっただろうか?

「加瀬君」

 名前を呼んで肩を叩くと、デッキシューズの持ち主は、よくわからないうめき声を上げながら顔も上げた。

「………あれ、とべさん?」
「おはよ」
「おはよう…」

 おはようとつぶやきながらまた机に突っ伏す。と思ったら、いくらもしないうちに今度はがばっと起き上がった。全く心臓に悪い男だ。

「寒い」
「うん、寒いよ」

 鸚鵡返しにつぶやきながら、何気ない素振りで隣の机に放置された本を回収する。

「寒い」
「うん、寒いってば」
「ところでどうしたの」
「私? えっと、本。本忘れたから取りに来た」
「あーそうか輪読あさってか。がんばれ」
「うん、ぼちぼちがんばる」
「まあ砥部さんならだいじょうぶだよね。…あー寒い」

 私がこの男と知り合ったのはつい最近だ。今ではそれなりに知っていることも多い――家に帰るのが面倒でひとり暮らしを始めたとか、それでも家に帰るのが面倒で学校に泊まることが割と多いとか、履物をしまえないとか、友達が多いとか愛煙家だとかマイルドセブン派だとか――けれど、同じゼミになるまでは顔も知らなかった。
 たまたま隣の席になったので色々と会話する機会は多いのだけれど、どうにも私は彼と会話するのが苦手だ。彼個人が嫌いなわけではなく、むしろ好きな人間の部類に入るのだが、話しているとどうも頭がぐるぐるしてきて自分が何を言っているのかわからなくなる。
 なのでこちらから話しかけることはめったになく、たいていは鸚鵡返しな会話と言えるのかどうだか怪しい会話になってしまう。今もそうだったのだけれど、これではいかん堂々巡りだ。寒がっている相手との会話を膨らませるにはどうすればいいか考えろ。

「…コーヒーでも飲む?」
「いや、大丈夫。腹も減ったしカレーでも食いに行こうかなあ」

 考えてもこれだ。
 彼はカレーが好きで、しょっちゅう食べに行っている。何やら行きつけの店があるらしく、そして食べに行くときはたいてい隣のゼミの友達と一緒だ。そうなるともはや入り込む隙はなくなってしまうので今日はここまで残念って一体何が残念なのか。私は本を取りに来ただけなのに。たまたま彼が寝てただけなのに。
 こんなふうにぐるぐる考えているとどうしても沈黙してしまうが、彼は普段からあまり沈黙を気にしない。ちょっとくらい空気読めないのか黙ってろと心配になることもあるが、饒舌では決してない私はそれをありがたく思うほうが多かった。
 そして今も彼は沈黙を気にしない。

「砥部さん飯食った?」
「えっ、…ううん、まだ」
「一緒にどう? カレー」

「砥部さん?」
「…あっ、うん、カレーね! うん行こう、行く!」

 一体何が起きた。


 +++


 何が起きたのかさっぱりわからない。
 わからないけれど私は彼と一緒に学校を出て、彼の車に一緒に乗って(!)一緒にカレー屋に向かって、一緒にカレー屋に入って同じテーブルに向かい合って座っている。
 彼はいつものように饒舌で、私はいつものように適宜相槌をうっている、ようなのだが頭はぐるぐるしっぱなしで、自分が何をしゃべっているのやら皆目見当がつかない(これもいつも通りか)。自分の所業を覚えていない酔っぱらいというのはきっとこんな感じなのだろう。

「――の一押しはキーマカレーで、友達はインドカレーが一番だって言うけど、俺のオススメはこっち、カシミールカレー、超辛いけど今日みたいな寒い時は絶対こっちのほうがウマいよ」
「じ、じゃあそれにしようかな。カシミールカレー」
「さっすが砥部さんわかってるね! すいませーん、カシミール2つ」

 とりあえず私は彼が(見た目によらず)意外に寂しがり屋なのを知っている。なぜいつもの友達を誘わなかったのは定かではないけれど、つまりおひとりさまごはんが嫌だったのだろう。
 その考えに至って、頭のぐるぐるが少しおさまった。同時にほんの少し寂しい気がしたけれど、こんなのは別にいつものことだ。相手の都合に合わせて相手の記録に書き込まれる。いつもの、ことだ。

「そういや今さらだけど、砥部さんて辛いの平気?」
「うん、けっこう好き」
「んじゃ良かった。ここけっこう辛いからさー、例えて言うと小野松の授業ぐらい」

 2年生の時の必修の担当の名が出てきて、私は思わずふきだした。その必修科目の単位1つだけが足りなくて留年する学生が相当数いるということはあまりにも有名だ。私は単位取ったけど。

「その例えわかりやすすぎっ」
「我ながらいい例えだとは思った。俺あれ再履食らってまさに今も受けてんだけどさ、何あれ日本語じゃねえよって」
「思った思った。でも黒板を見たとおりにノートに写しとくと意外と試験なんとかなるよ」
「…。再履だしいいやとか思って半分ぐらいサボっちゃったんだけど…これは3ヵ年計画発動か」
「…ノート貸そうか? 去年のだけど」
「マジで! いいの」
「うん、別に使わないし」
「砥部さんは神様でしたか。うわマジありがとうとりあえず今日おごるわ」
「えっ、いいよそんな」
「いやおごるおごるよおごらせて」
「………じゃあ、お言葉に甘えて…ごちそうになります」

 一体どこからこんなにも言葉が出てくるのか全く自分でも不思議だったが、かつてないくらいに会話が弾む。小野松に感謝せざるを得ない。
 彼とこうして話すのは楽しかったけれど、そうして会話が弾めば弾むほど、私の心はどこかがしぼんでいった。さっき感じたほんの少しの寂しさ、いつものことのはずなのに、そのほんの少しの寂しさがどんどんどんどんふくらんでいく。もはやほんの少しなんてレベルじゃない、このままじゃいけない、このままじゃ押しつぶされてしまう。

「はい、カシミールふたつお待たせ」
「待ってました! んじゃ食おう、いただきまーっす」
「う、うん、いただきます」

 彼にならってぱくりと口に入れたカレーはなるほど猛烈に辛かった。舌がしびれる。汗がふき出てくる。確かにこれは寒い日にこそ食べたいかもしれない。それにしてもおいしい。

「はらひ」
「小野松クラス?」
「うん。へもおいひい」
「よかったよかった」
「…うん」

 確かにこの店のカレーは絶品なのだけれど、でもそれだけじゃない。
 たぶん、そういうことではないのだ。


 +++


「はあ、辛かったあ」
「でもそれがいいしょ?」
「うん。おいしかった」
「そうだろうそうだろう。ああ、初めて一緒においしがってくれる人に会えて感動」
「初めて? 私が?」
「実はそうなんだな、みんな辛いの嫌いらしくて」
「ふうん。なんかもったいないね」
「だよなだよな。…んでは食後のお楽しみといきますか」
「食後の?」

 なんだろう、といぶかる間もなく、まるで図ったようなタイミングで店員がやってきて、テーブルにグラスを2つ置いた。

「はい、ラッシーお待たせ」
「どうもー」

 グラスの中身は泡の立った飲むヨーグルトという感じで、今までに見たことのあるラッシーとは少し趣の違う飲みものだった。それにしても、

「いつの間に頼んだの?」
「あー、これね、カシミールカレー頼むとおまけで付いてくんの。辛いから」
「なるほど」
「そういうこと。これけっこう本格派でうまいよ。辛さに負けた口に沁みわたる」
「へぇ、こういうの初めてだ。いただきます」
「どうぞどうぞ、って、俺が作ったわけじゃないけど」

 すすめられるままにグラスを口に運ぶ。まろやかで甘くて少しすっぱい味がじんわりと広がって、辛さに負けた口に沁みわたるという表現がまさにそのものだ。あまりにおいしくてほうっと息をつく。彼は自分のグラスにはまだ口を付けず、自分がおいしいと思うものを私もおいしいと思うのがそんなに嬉しいのか、私をにこにこと見ている。

 ―――ラッシーが沁みわたったのは、どうやら口だけではなかったらしい。

「とっ砥部さん!? どうした、腹痛い!?」
「えっ……あ、あれ…?」

 よくマンガで、泣いてるのに他人に指摘されるまで気付かないシーンがあったりする。私はそんなのを見るたびいつも「そんなわけねえだろう」などと思っていたのだけれど、まさか自分の身にそれが起こってしまってはもうそんなこと言えない。
 とにかくなんだかよく分からないけれど、ラッシーを飲みながら、私は泣いていた。

「えっ、どうしよう、俺なんか嫌なこと言った!? それともどっか痛い!?」
「…ちがう、……ちがうよ、ちがうの」

 なんだか分からないけれど急に泣けて泣けてしかたがなくて、泣く私を前におろおろする彼の姿がまた泣けて、もうどうしようもない。公共の場所だ? そんなの知るか。
 ぼろぼろ泣きながら、心に巻き起こった狂おしいほどの思いに私は身を任せる。

 記録じゃ嫌だ。このひとの記憶に、残りたい。


 +++


「なんか…ごめんね、今日」
「いや俺はいいんだけど。ほんとに大丈夫?」
「うん、だいじょうぶ」
「…あの、もし俺がなんか嫌だったなら言って」
「違うのほんとに、なんにも加瀬君のせいじゃないから。あの…えっと、その、…急に輪読が心配になって」

 こんな見え見えの嘘にあっさりだまされて安心する彼を私はすごく好ましく思う。食事中に突然ぼろぼろ泣きだすほど心配な輪読とはいったいどんな輪読だ。

「なんだそっか。輪読なんか適当にやっつけとけばいいんだよ、砥部さんならだいじょうぶだって俺言ったじゃん」
「うん、ありがと。…でもなんかね、授業取ってない分みんなより時間多いんだから、しっかりやんなきゃって思うんだよね」
「砥部さんはまじめだねぇ…って、え? 授業取ってないって」
「うん、もう取り終わっちゃったから。興味ある授業もなかったし」
「取り終わっちゃった…って、前期で?」
「うん」
「………俺、もっと早く砥部さんとなかよくなりたかった」
「私もそう思う」
「…まあ過ぎたことを悔いても始まらんしね。とりあえず俺も今期がんばらないと」
「うん、がんばれ。…だいじょうぶだよ、加瀬君なら」
「そう?」
「うん、保障する」

 だってあなたは、すごく、いいひとだから。

「カレーおいしかった。また連れてってね」
「おう、いつでも声かけてよ」
「うん。じゃあまた、あさって」
「ん、じゃあね。気をつけて」
「うん。ありがとう。…それじゃ」

 手を振って背を向けて歩きはじめて、ふと振り返ると彼はまだ手を振っていた。もう一度手を振り返して、今度こそ背を向ける。
 言葉にするといかにもな別れの場面なのだけれど、なんだかひどく温かい気がした。



この物語は(3年前期で単位を取り終わっているという点において)フィクションです。
あとゼミというよりどうみても理系の研究室ライフなんですが、まあ気にすんな。

『あるひとのことが死ぬほど好きなのに自分でそれに気付いてなかったおんなのこ』
というシチュエーションがわたくしは大好物でありますなあ、いや全く
記憶に残りたいのにBGMが終始ラビットフォーゲッツ(KNOTS)だったりして
よくわからなさに拍車をかけているような気がしますがとりあえず名曲なので聴こう!ヘルメンマロンティック!!

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