まひるは一日中うわのそらだった。全部の授業でテストに出る大事なところをやっていたような気もするし、 全部の授業で先生に睨まれたような気もするし、友達にもさんざん不審がられたけれど、 今のまひるにとって正直そんなことはアフリカゾウを前にしたクロヤマアリのごとくちっぽけな全くもってどうでもいいことでしかなかった。
 うわのそらなまま学校が終わり、友達と別れて、電車に乗ってバスに乗ってバス停から歩く間もずっとうわのそらで、
「…」
 あと30秒で玄関というところ、まひるの家の隣、きれいな空色の壁と真っ白な屋根と大きな看板を持った家というよりは店舗、 ようするに端的に言えば『ソライロスイッチ』の前でまひるは足を止めた。
 いつもならこのまま、もしくは一度家に帰ってから、あのカウベルがついた見た目より重い扉を開いて中に入っていくのだけれど、
「…だめだ」
 今日はそれができそうになかった。ため息をついて屋根裏部屋の窓を見上げれば、頭に浮かぶのは昨日の出来事。 高校二年生にもなってわがまま言った。めちゃくちゃ言った。そして蒲原を泣かせた。 大人の男の人が泣くのなんて初めて見たし、そのうえその泣いた男は蒲原で、しかも原因はほぼ九割方自分にあるし、 昨夜からそのことを考えるたびにまひるの頭の中はぐちゃぐちゃだった。だから可能な限り何も考えないように一日を過ごしてきたものの、 こうして事件の現場を目の前にしてしまえば否が応でも考えてしまう。
 ふと一階の窓に人影が映った。
「!」
 思わず大慌てでその窓からは見えないあたりに逃げるまひる。心臓は早鐘のごとく鳴りひびき、頭はなんだかぐらぐらしてきて、
「…やっぱり今日は帰ろう…」
 そう思ったものの未練たらしくその辺をうろうろするまひるの頬を水滴が打った。
「…雨?」
 そういえばさっきから辺りが薄暗くなっていた。そう思うわずかな間にも雨の勢いはどんどん増していく。ため息をついて、まひるは急ぎ足で家の玄関へと向かった。

 *

 蒲原は慌てて玄関に飛び込んでいくまひるの姿を一階の窓から見ていた。見ていたというよりは、雨に気付いて外を見たらたまたま目に入ったので眺めていた、というほうが正しい。
 店は朝から閉めていた。扉にかけられた臨時休業の札を見て驚くどころか、札に気付くことさえなかったまひるの姿を見ても何の感情も沸き起こってこないことに蒲原は自分で驚いている。 ああ、やっぱりダメか、そんなことがまるで他人事のように頭に浮かぶばかりだった。
 誰かと共有するには自分の今までの経歴、というよりじいさんとの思い出は重すぎるのだ。 その重さに耐え切れずに今まで自分でもしまい込んでいたくらいだ。忘れていたつもりだったのに、いったいどうして今更あんな夢を見たのか、
「!」
 はっと気付いてカレンダーを見る。日付を確認して記憶をたどる、7年前の今日いったい何があったのかを理解して、蒲原は額を覆った。
「…こういうのが『夢枕に立つ』っていうのか…?」

 7年前の今日は、蒲原が生まれてはじめて手に入れた色々なものが、


 彼にとっての青空が、消えた日だ。

 *

 かなりの降りになってきた雨の音を聞きつつ、蒲原は屋根裏部屋の一角にあるがらくたの山を漁っていた。 ほとんどががらくただが、中にはここに引っ越してきた時以来ほどいていない荷物も多く、そして蒲原が今探しているのはそのうちの一つだった。
「…っと、これか」
 今にもなだれを起こしそうな山からそろそろと引き出されたのは、かなり大きい古ぼけた木箱だった。 蓋を開くと大量のほこりが立ち上る。中には生活必需品から用途不明のがらくたまでありとあらゆるものが雑多に詰め込まれていた。 蒲原はその中から、厳重に封をされたビンをつかみ出す。光の加減か、何か別の要因があるのか、中身はうかがうことができない。
「…じいさん」
 封を少しづつ引き剥がしていく。
「結局、これ…」
 コルクの栓をつかんで、
「どうやってあんなもん詰めたんだよ…」
 一気に引き抜いた。

 ***

 夕方から降りだした雨は夜更けにはかなりの大降りになって、どこかでは大雨洪水警報も出たという。 外から聞こえてくる音は雨が地面にたたきつける音ばかりで、他に何の音も聞こえないほどだった。今どこかに隕石が落ちても気付かないだろうな、なんてことをふと思う。
 まひるは机に向かって宿題を広げていて、しかしそれはただ広がっているだけだった。手には鉛筆すら持っていない。雨の音も聞こえているのかいないのか、まひるはひたすらぼんやりとしていた。
 心配だった。
 夕方は顔を出しづらくて結局家に帰ってしまったけれど、家に帰って一息ついて夕ご飯も食べてお風呂にも入って、と夜も更けてきた今頃になって急に蒲原のことが心配になってきたのだ。
 といっても別に具合悪くなってばったり倒れていやしないか、とか屋根裏部屋のすみっこでシクシク泣いているんじゃないか、 とかそういう心配をしているわけではなく、蒲原に蒲原の過去を聞かされたときからずっともやもやとまひるの周りを漂っていた漠然としたイヤな感じが急に形を持ったことで現れてきた、 心配というより不安だった。
 蒲原はここに落ち着いた一年前までは、「じいさん」がいる間も、いなくなってからもずっとあちこち転々としていたと言っていた。 行く先々で「謎技術」を披露しつつ、根無し草のようにあてもなく漂っていく暮らしは蒲原に合っているとまひるも思う。 それなのに、ずっと蒲原が隣の家に暮らすことをたぶん望んでいるまひるでさえもそう思ってしまうのに、蒲原がこれからずっとここにいる、と誰が言い切れるだろう?

 …いつかまた、ふらっといなくなっちゃうのかもしれない。

 そう思ったとたん、急に不安になってきたのだった。あんなふうに別れたあとだからなおさらだ。
「…よし」
 立ち上がり、パジャマの上からカーディガンをはおる。忍び足で廊下に出てそっと階段を下り、両親がすでに休んでいることを確認すると、 まひるは忍び足で玄関の扉からするりと抜け出した。傘を差して小走りに隣の家に向かう。足元や上着のすそがあっという間に濡れたけれど、 今はそんなことはどうでもよかった。カウベルのついた扉の前に立って、呼吸を整えてからベルを鳴らす。中の明かりがついて、しばらくして鍵の開く音がした。扉が細く開く。
「どちらさん? …あれ」
 夜の来客の姿を確認して、驚いた顔で扉を開く蒲原。
「こんばんは。…夜遅くにごめんね、蒲原さん」
「いやそれは別にいいけど…」どうしたの、と続けようとした蒲原は、まひるがパジャマ姿だとやっと気付いて心なしか焦ったように続けた。
「ずぶ濡れじゃんまひるちゃん、とりあえず入りな」

 傘を差していたし走った距離も短かったから、ずぶ濡れというのはだいぶ大げさではあったけれど、多少寒かったのは事実なので、 というより蒲原の姿を確認したら急に力が抜けてきてしまったので、ありがたく店の中に入れてもらった。
タオルを貸してもらって、まひるがあちこち拭いている間に、蒲原はココアを作って持ってくる。
「ほい、あったまるよ」
「ありがとう」お礼を言って受け取る。ほっこりと湯気をたてるココアは薄すぎず濃すぎず甘すぎず苦すぎず絶妙な味で、
「おいしい!」
 会ったらちょっと気まずいけどなんて言おうとか蒲原がここからいなくなってしまったらどうしようとか、色々ともやもや考えていたことが一瞬全部ふっとんでしまった。
「そりゃどうも」
 まひるの素直な賛辞に照れ笑いを浮かべつつも微妙に得意げに答える蒲原は、昨日の屋根裏部屋での出来事なんて全く感じさせないほどいつもどおりで、
「ところで、こんな夜更けにどうしたの」
 まさか蒲原がいなくなってたらイヤだから確かめに来たなんて言えず、
「…んー、…今蒲原さんに会いに行くとおいしいココアが飲めるってココアの神様のお告げが」適当にごまかすまひる。
「なんだそりゃ」
 呆れたようなその顔もまったくもっていつもどおりで、まひるは何だかそれだけでほっとした。
「…本当はちょっと、心配だったの」
「何が? 俺がシクシク泣いてないかとか?」
「違う。…知らない間に、今までみたいにどっか行っちゃうんじゃないかって」
 蒲原の顔がほんの少しゆるんだ。
「何だ、そんなこと」
「そんなこと、じゃないもん」
 ぽんぽんと蒲原の手がまひるの頭を叩いた。
「俺これでもけっこうここ気に入ってるんだよ。…大丈夫、どこにも行かないから。もし行くとしても黙っていなくなったりしないよ」

 *

「じゃ、おやすみまひるちゃん」
「うん、おやすみなさい、明日! 明日はちゃんとバイト行くから!」
 空色の傘を差したまひるが家の玄関に消えるまで、蒲原は店の玄関で見送っていた。

「…どっか行っちゃうかも、か」
 扉を開けてまひるの姿を見たとき、喜びのあまり飛び上がりそうだった。 ココアを飲みながら泣きそうな顔で来た理由を話すまひるを見て不思議なくらいに気持ちが安らいでいた。 いつかはどちらかが遠くへ離れていってしまう、その日が訪れることを、本当はまひるより自分のほうがずっと恐れているのだ。
「さて」
 まひるが家の中に入ったことを確認すると、蒲原は店の明かりを消して屋根裏部屋へと向かう。
 その顔は、なぜかどこか寂しげだった。

 *

 蒲原はどこにも行かないとはっきり言った。もし行くとしても黙っていなくなったりはしないと。 それだけで不思議なくらいに安心できて、気のゆるんだまひるはあっという間に寝入ってしまった。


 だから、隣の家のあたりに何かが落ちたような音が響いたことに、まひるは気付かなかった。

 ***

 学校帰り、まひるは昨日とは比べ物にならないくらいはつらつとしていた。宿題をやり忘れたり寝坊して遅刻しかかったりはしたけれど、 そんなことは昨日と同じくどうでもよかった。またいつもどおり『ソライロスイッチ』で蒲原の手伝いができると思うともう楽しくてたまらない。 るんるんと今にもスキップを始めんばかりの調子で店の前まで到達し、カウベルのついた扉を開いた。
「こんにちはっ、…?」
 中に入ったまひるが最初に見たものは、ずぶ濡れになった品物だった。よく見ると品物だけではなく、床もテーブルも棚もほとんど部屋中の全てのものが濡れている。
「…雨漏り、かなあ」
 雨漏りというにはあまりに悲惨な状態で、しかも昨日の夜には何ともなかったわけだが、それでもまひるには他に部屋中水浸しになってしまうような理由が思いつかず、 昨夜の大雨ならありうるかもなあ、と無理矢理自分を納得させて、
 ふと上を見上げて、
「…なに、あれ…」
 そこにあるはずのないものを見て愕然とする。見覚えがある、まだここが空き家だったころ、
「…そんなわけない!」
 考えを途中で中断し、まひるは慌てて外に出た。玄関から少し離れて、改めて建物を見る。見慣れない、でもある意味では見慣れた建物だった。
「あれ、…そんな」
 まひるが見た建物は、一年前、蒲原が来る前にまひるの家の隣にあった建物だった。きれいな空色に塗られていたはずの壁は木材が剥き出しになり、真っ白く塗られた屋根には大きな穴が空き、
扉の上にかけられているはずの『ソライロスイッチ』と書かれた大きな看板は、どこにも見当たらなかった。
「嘘…」
 膝ががくがくする。足に力が入らなくなってきて、全然言うことを聞かない。まひるはその場にへたりこんだ。

 ―――大丈夫、どこにも行かないから。
 そう言った。
 ―――もし行くとしても、黙っていなくなったりしないよ。
 確かに、そう言ったのに。

「うらはら、さん…」
「何ぞや」
 背後から突然やる気のない声が聞こえてきて、まひるは驚いて立ち上がった。振り返ると、何か大きな荷物を抱えた人影がひとつ。
「こんな道ばたに座り込んでどうしたのまひるちゃん」
「う…蒲原さん!?何で」
「何でって買い物」
「か…買い物?」
「そう。屋根とか看板とか直すのに工具がなくてさ」
「…看板!看板はどうしたの」
「こっち」
 そう言って蒲原がまひるを連れて行ったのは、屋根裏部屋。部屋の真ん中に「『ソライロ」と「スイッチ』」の二つに割れた看板が置いてあった。
「今朝突然落っこちちゃってさあ」
 まひるは開いた口がふさがらなかったが、ようやく次の質問をしぼり出した。
「…壁は?ペンキはげてたよ」
「そう!」よくぞ聞いてくれた、とばかりに話し始める蒲原。
「10年は落ちないっていうペンキを売りに来たセールスマンがいてさ、そりゃすごいと思ってこの前わざわざ塗りなおしたのに、 どうもそれが水性だったらしくて昨夜の雨でイチコロ、思いっきりだまされたよ」
 しばし頭を抱えるまひる。
「…屋根!なんで穴空いてるの」
「ああ、それは」
 蒲原は床に転がっている空き瓶を手に取った。
「じいさんの謎技術の中に瓶詰め宇宙っていうのがあってさ。そういえば昨日はじいさんの命日だったなと思って、一つだけ残ってたやつ空けたら」
「…空けたら?」
 屋根の穴からのぞく青空を見上げつつ、蒲原は3丁目のスーパーで卵が特売だとでも言うような口調で続けた。
「隕石降ってきちゃってさあ」
 一瞬の自失からなんとか立ち直り、まひるは口を開いた。
「…はじめて見たよ」
「何を」
「隕石保険に入るべき人」

 *

 店の片付けを手伝いながら、まひるはもう片付けを始めてから何度目だかわからない質問をした。
「屋根と壁と看板は本当にたまたま壊れちゃっただけなの?どっか行っちゃう前に後始末したとかじゃなくて?」
 そのたびに蒲原は笑いながら答えるのだった。
「俺は嘘はつかないよ。ホラはふくけども」

 *

―――夢は信じてくれる人がいて初めて売れる。

「お前はいい得意先を見つけたなあ」
「まひるちゃんはバイトだよ」
「幽霊の独り言に口をはさむでない」



 Back
 Top