「起きなさい」
冷ややかな声が聞こえ、同時に手の辺りににぶい痛みを感じ、アルムは目を開けた。反射的に体を起こそうとして、手の辺りにずっとあった痛みが鋭くなって再び倒れこむ。
「気分はどう?」
上から降ってくる声の出どころを確かめるべく顔をあげた。予想通り、見覚えのある女が冷ややかな笑みを浮かべてそこに立っていることに気づく。同時にその女の靴が自分の手をしたたかに踏みにじっていることにも。
「最悪だな」
「元気じゃない」
手が自由になり、アルムは体を起こした。当たり前だがまったく見覚えのない部屋、その隅のほうに申し訳程度に敷かれた布の上に寝かされていたらしい。
リサキの姿は見えなかった。
「リサキはどこだ」
「言うわけないでしょう」
「………」
「安心して、殺したりはしないから」
女は、拘束されていないアルムが自分に襲いかかってくる可能性などまったく頭になさそうな様子で椅子に腰掛けた。
「アタシはキリ」
女…キリは、敵意を剥き出しにしているアルムのことなど完璧に無視して話しはじめた。
「アタシは五年前まで、あの街に住んでたんだよ。大聖堂で下働きをして、一人息子をあんたぐらいの歳まで女手ひとつで育てあげた」
「………で?」
「息子は聖堂兵をやってた…あの日も、街を守って死ねるなら本望だって…誇らしげに出てったんだよ、アタシが止めるのも聞かずに」
「……………」
「だけどあの子は生き延びた…あの怪物が倒されてから、たしかにアタシのところに帰ってきたはずなんだ…!」
「!」
いつのまにかキリが立ち上がっていた。ふいをつかれ、アルムは思い切り突き飛ばされる。背中をしたたかに壁に打ち付け、体勢が整わないでいるうちにキリの手がアルムの首にかかった。
「帰ってきたのに…それなのに、あの子は…アタシの目の前で、あいつの…風牙の尻尾になぎ払われて…!」
「………っ…か………」
「あんたに分かるかい!?そのときのアタシの気持ちが!あの子がどんなひどい姿になったか!街を守って死ねるなら本望だってあんなに誇らしげに言ってた子が、街の犠牲になるわけでもなしに全然関係のないところで殺されたんだ!それなのに、あの子を殺したバケモノもそのバケモノを呼んだあの娘ものうのうと生きて…こんな不公平なことがあってたまるかい!?」
「…お、まえ………だから、リサ、キ、を…」
「そう…正確には、風牙をね…。教主様がきっと風牙を始末してくれるはずさ…」
「…教、主?」
「そう…アタシに幻術を教えてくださった、恩人さ」
キリの手がようやく緩む。床に膝をつき、アルムは呼吸もそこそこに激しく咳き込んだ。
「…ま、せいぜいここで手をこまねいてるがいいよ。次にあの娘に会うときはもう風牙は始末されたあとだろうね」
++
――――このままここでこうしているつもりか
「………ううん」
――――我はこのまま隠れているつもりは無いぞ
「わかってる」
――――ならば
「わかってる…でも」
――――我が始末されれば其方も無事では済むまい
「…そだね」
――――もはや、隠しとおせまいぞ
「わかってるよ………でも、でもね、風牙」
――――何を躊躇う
「わたしは、ね…怖いんだよ、アルムが」
++
「教主様。あの若造、どうしましょう」
「…巫女姫の付き人のことだな?」
「まさしく」
「………使えるかも知れん。とっておけ」
「は」
「ところでそれは何処にいる」
「あちらの部屋に」
「巫女姫は」
「塔の最上層に幽閉してございます」
「判った。下がってよい」
「はっ」
キリが居なくなると、部屋の中はしんと静まり返る。耳の痛くなるほどの完全なる静寂。
「…歴代最強にして最恐の使い魔、風牙…もうすぐ私のものだ…」
++
堅く閉ざされた扉は、アルムの力ではびくともしなかった。
「…くそっ」
何度目かの悪態をつく。こうしている間にも、風牙が始末されようとしているかもしれないのだ。
教主と呼ばれている奴には心当たりがあった。日の沈む時間から見てもここは街からそんなには離れていない。おそらく隣り街か、その近辺。その辺りからしょっちゅう司祭に幻術使いを売り込みにくる男、恐らくそいつだろう。共の者に教主と呼ばれていた。
あんな奴に風牙を始末することができるなどとは露ほども思わないし、本音を言えば風牙が始末されてもアルムとしては別に構わないのだが、リサキの体から風牙を呼び出したりしたらどうなるか。
「このやろっ!」
扉に駄目押しで一撃入れる。と、外でかんぬきの外れる鈍い音がした。
++
「…おじさんたち、だーれ?」
「おじさんはね、君の体に憑いた悪いモノを退治しにきたんだよ」
「わるいものなんかついてないよ」
「見えないものなんだよ。さぁ、この魔方陣の上に乗って」
「うん」
リサキの全身に、蛇のような模様が浮かび上がってきた。
模様がくっきりとしてくるにつれ、足元の魔方陣や模様自体から紫色の霧が噴出してくる。
リサキの意識は変に冴えていた。
後は時を待つばかりだと、誰かが囁いた。
++
窓の外にそびえ立つ塔の上のほうから、見覚えのある紫色の霧が漏れ出てきているのをアルムは見つけた。
「………あそこか」
++
「……どういうことです、教主様?風牙を始末してくださるのでは…なかったのですか」
「誰がいつそう言った?私は、風牙を生かしたまま自分のものにしたいと、そう言ったはずだが?」
「…そんな…!それでは、あいつを生かしておくというのですか!?あんまりです、アタシはあいつを殺してくれると言うから…」
教主の袖口で何かが光っていることに、とうとうキリは気付かなかった。
「………君は、少し煩すぎたね」
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