Act 3: BLUE SKY, blue-sky 


「止めてっ!」
 何処かで聞いたことのあるような、少女の声。
 その叫び声と、パン、という音がアルムの耳に届いたのはほぼ同時だった。
「…何だ……?」
 行き止まりに見える扉、音と声はそこから聞こえてきた。そしてそこはリサキと教主が居る、窓から見たあの部屋だ。
 細心の注意を払いながら扉を開く。すると、アルムにめがけて何かが倒れこんできた。
「…っ!」
 倒れてきた人影に押されて倒れこむ。石で出来た硬い床に思い切り背中を打って息が詰まった。
「おやおやこれは…意外な観客のお出ましだ」
 倒れこんできたのは、キリであった。完全に意識を手放している。顔を上げると、この部屋が毒々しい紫色の霧に包まれていることが霞んだ目にもはっきりとわかった。これにやられたか、それとも。
「その女はそちらの聖堂にお返しするよ。…もう用済みなのでな」
 袖口からちらちらと覗く金属の筒。
「…電気銃、か」
 まだ珍しい武器ではあるが、アルムも見たことがあった。撃たれても死にはしないが、確実に気を失う危険な得物。そんなものを持っているとは思わなかったので、アルムは丸腰だった。持っていると知っていても武器は全て奪われていたが。
 警戒しながら人影のあるほうを睨みつける。
 長丁場になりそうだ。

 ++

 紫色の霧が、また一段と濃くなったような気がした。
 アルムは五年前にも似たような光景を見たことがある。忘れようにも忘れられない、あのとき街に居た者ならばたとえ赤子でも判るであろう、その禍々しい気配。
「お前…」
 紫色の霧のなか薄く笑う、教主、と呼ばれていた男。
「一体…何を」
「…何、だと?決まっているだろう…?」
 男は笑う。野望の完成を目前に。

「風牙を私の使い魔にするのだ」

「なんてことを…!」
「何故だ?素晴らしいことではないか。私は風牙の力を手にすることが出来る、この小娘は解放される、お前等の街ももう怯え暮らすことはない!」
 そのとき初めてアルムの目にリサキの姿が入ってきた。紫の霧が噴き出しつづける魔方陣の上に、ぼんやりと座り込んでいる。
「何でもいいからすぐ止めろ!」
「…無理だな…。もう遅いわ!」
 教主が叫んだ瞬間、リサキが見えなくなった。
 それ程密度の高いなにかが、彼女の下の魔方陣から溢れ出てきたのだ。
「蘇れ、風牙!」
「っ!」
 先ほどまでたちこめていた霧が、今度は紫色の風となって勢いよくアルムに襲いかかってくる。立っているのが精一杯なほどの激しい風だ。
「素晴らしい…これが…!」
 場違いなほど嬉しげな教主の声がするほうを見た。リサキの居るほうだ。
「………ふ、風牙………」

 網膜の裏に今も焼きついているあの姿。
 それが、そのままそこにあった。

 ++

 一瞬の自失から解放されると、アルムは魔方陣の上でぐったりと倒れ伏しているリサキの元へ行こうとしたが、あまりに風が強くて一歩も先に進めない。
「これで、私も…風牙は私のものだ…!」
 相変わらず異様に嬉しそうな教主を尻目に、アルムはなんとかリサキの元へ行こうとする。
 風が僅かにやわらいだ。
「…リサキ、リサキしっかりしろ」
 顔面は蒼白だが、息はしている。気を失っているだけのようだった。
 とりあえずリサキが無事であることを確認してから教主の方に向き直って、アルムは息をのんだ。
 さっき風がやわらいだ理由、それは一つしかない。
 今まさに、風牙の大蛇のような巨体が教主の躰に吸い込まれていくところだった。
「おお、力が…これが風牙の力…!」
 風牙の体はまだ半分も教主の体に憑いてはいないだろう。叩くなら今だ、そう思った。
「…おい、おっさん。本当に、自分に風牙を抑えることが出来る、そう思ってんのか?」
「…何を言う!あたりまえではないか、あんな小娘が五年間もしてきたことを、この私が出来ないはずがない!」
「へぇ…じゃあ、それは何だよ?」
 アルムが指差したのは、教主の顔だった。顔だけでなく腕や、恐らく足にも、先ほどは無かった毒々しい紫色の斑点が浮き出てきている。
「これがどうした?こんなもの、小娘にも浮き出てきていたではないか」
「よく見ろよ。形が違うだろ?それに、リサキは普段はそんな模様出してなかった」
「それが何だというのだ?どんなに屁理屈をこねても、今現在私は奴を抑えているではないか」
「半分以下、な」
 そこで教主は初めて後ろを振り返った。確かに、自分の中に吸い込まれたはずの風牙の体がまだそこにある。それも半分以上。
「…な、何故だ…」

「馬鹿かおっさん。…リサキだから、出来てたんだ」

 唐突に教主の体から巨大な蛇の頭が出てきた。
「っ!」
 牙を剥いたその姿は、アルムでさえも一瞬たじろいでしまう。
 巨大な頭の脇に付いた二つの眼が紅く染まった。
「…まずい…!」
 風牙の双眸が紅く染まるとき破壊が訪れる。古くから言われていることだ。
 教主の体から完全に出てきてしまった今、もはや風牙の巨体はなにものにも束縛されていない。
「!」
 アルムの頬を尻尾が掠め、後ろの壁を打ち砕いた。それを合図にしたように風牙がのたうち始める。
「…もう、駄目か」

 あの時生き延びたのに。
 俺は、また風牙に殺されるのか?

 そんなことを思ったとき。
 ふと、声が聴こえた、気がした。

 ++

『りさきはわたげのほうがすきなの。わたげのほうがいっしょうけんめいだから』

 ++

 ずっと疑問に思っていた。
 わずか十歳で風牙を召喚した、才能に溢れる彼女が、 
 自身の危険も厭わず街を救った強い彼女が、
 いくら風牙だとはいえ、使い魔をその身に封じたくらいのことで精神を壊してしまうのだろうかと。

 もしも、
 もしも彼女がずっと正気だったのだとしたら。

 この言葉は、もしかしたら。


 宙を探った手が、冷たく硬いものに触れた。
「…あきらめられるかあっ!」
 恐らくはキリが持っていた大ぶりのナイフ。それをふりかざし、アルムは猛然と走った。
 風牙のもとへ、風牙を倒すため。

 ++

 霞んだ瞳に人影が写った。伝説の使い魔、風牙を相手に、得物は大ぶりとはいえナイフがひとつだけ。
 無茶だと思った。
 大体いつもいつも無茶をする。この部屋に乗り込んできたときだってそうとう無茶をしたんだと思う。
 それでもあきらめないのなら、

「…わたしも、無茶してみようか」

 ++

「…っ!」
 尻尾にナイフを弾かれた。あれからどれくらい経ったのか、アルムは風牙に傷一つ与えることは出来ていない。
 手から弾かれたナイフは部屋の反対側の隅に飛んでいってしまい、もうアルムの元に武器は無くなってしまった。
「……ここまで、か」
 尻尾が再び向かってくるのが見え、固く眼を閉じた。
 そのとき。

「止めなさい!」

 鋭い声。
 不思議なことに、その声で風牙の活動が停まった。
「止めなさい、風牙…もう、止めなさい」
 子供をあやすような声。風牙の双眸が、徐々に色を変えていく。
 やがて風牙はすっかりおとなしくなった。
「還っておいで…風牙」
 その声とともに、紫の霧も風牙の巨体もある一点に吸い込まれていく。
 ふとアルムは、自分の足元で教主がわなわなと震えているのに気が付いた。
「…自分で喚んでおいて…お前、自分が何をしたかわかってるのか?」
 アルムの言葉は全く聞こえていないようで、風牙が去ったことにも気付かず震えつづけている。しばらく元に戻らないだろうから、重要参考人として連れ帰るのはあきらめた。街に帰ってから人をここに来させればいい。

 今は、彼女と帰るほうが先だ。

「帰ろう…リサキ」